静岡高教組の教育研究ブログです
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三島・田方地区 教育研究集会
 東日本大震災の被災地から……ボランティア報告会 

三島・田方地区 教育研究集会として 開催します。

日時:2月11日(土・祝) 14:00 〜 17:00

場所:田方農業高校 耕友会館

連絡先:静岡高教組 電話:054-254-6900

直接「田方農業高校」に問い合わせないで下さい。

2012_0211三田地区教研チラシ
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半熟フォーラム2012
 文化と学問の世界へようこそ

ゴスペルとフラメンコ

仮説実験授業「自由電子が見えたなら」

2012年2月18日(土)静岡県教育会館4階 入場無料

13:00〜受付
13:30〜開会 ゴスペルとフラメンコ

14:00〜伊東高校 河上力哉先生による仮説実験授業
「自由電子が見えたなら」
15:30〜質疑
16:30 終了予定  交流会もあります

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焼津平和賞受賞 幡多ゼミナールの高校生との交流会
  12月23日(金)焼津平和賞を受賞した幡多ゼミナールと地元の高校生のシンポジウムがあり、その後、交流会を行いました。
 幡多高校生ゼミナール(幡多ゼミ)は、高知県幡多地区で、「足もとから平和と青春を見つめよう」をモットーに公立高校8校の高校生が主体となって活動し、地域の現代史調査にとりくみ、現在は主に韓国の高校生・教員との交流活動をすすめている。
 1983年8月3日に、 学校を超え、地域の人権問題と現代史を結びつけた調査をすすめる自主的な高校生のサークルとして設立。現在までに300人を超える卒業生を輩出し、ビキニ事件の被災船調査や韓国・朝鮮人問題などに取り組み、本年は、東日本大震災の被災地・福島県の高校生との交流を実施するなど幅広い活動を行っている。1993年からは、日韓の高校生交流をすすめている。
 当日のシンポジウムには、
 幡多高校生ゼミナール高校3年生
 幡多高校生ゼミナール卒業生 
 焼津中央高校2年生 
 焼津水産高校2年生 
 焼津高校3年生 が登壇。(焼津市広報から)

 高校生らはそれぞれの体験から、歴史を学び、伝えることの大切さを主張した。修学旅行で長崎を訪問した焼津水産高の鈴木ゆうさんは「学習することで、今の平和な日々がいかにありがたいかを実感できた」、幡多ゼミ生の吉村恵並さん(高知県立清水高)は「学んだことを高校生が共有し、後輩に伝えていくことが平和につながっていく」と話した。
 焼津高の川合序実さんは被災地復興に向け、「未来に進もうとする被災地の人々を信じ続けることが大切」と訴え、焼津中央高の見原遥佑さんは「原発や放射性物質についても、正と負の両方の情報がある。物事の両面を適切に捉えるには正確な情報理解が必要」との姿勢を示した。
 同ゼミは、1954年に米国の水爆実験で焼津港所属のマグロ漁船第五福竜丸や国内外の多数の漁船などが被災した「ビキニ事件」の追跡調査を続ける。同ゼミ顧問の山下正寿さん(高知県)は、今回の高校生の討論を「焼津市ならではの非常に先進的な取り組み」と高く評価した。(静岡新聞から)
2011_1223交流会1
 午後4時からの高校生の交流会には、焼津中央高校、焼津水産高校、焼津高校、藤枝東高校、島田高校、島田工業高校、順心高校、藤枝北高校からも高校生が参加。
 学校の中で平和学習や活動をすることのむずかしさなどにも触れながら、身近な地域の歴史を「学び、伝えることの大切さ」を確認し合った。
2011_1223交流会2
 静岡・藤枝からも「高校生平和ゼミナール」「エバーグリーン」などの活動も紹介された。
2011_1223交流会3
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12月19日 志太榛原地区「味な平和ゼミナール」
 

 12月19日(日)志太榛原地区教育研究集会「味な平和ゼミナール」in島田

「味平」は今年でなんと20回目。志太榛原地区の立派な伝統行事です。

 今年の平和の部は、島田樟誠高校の小林大治郎先生を招いて、「原爆投下訓練と島田空襲」

2011_1219味平 小林氏

(1)はじめに

  1989年,3人の社会科教員が島田の隠れた歴史を掘ろうと思い立った。きっかけは,教科書通りの知識に飽き足らず,授業を聞かない目の前の手強い生徒たちと,分かり易く楽しい教材で,何とかして学びの面白さをつかませたい,ともがく教師の存在であった。当時の彼らは面倒くさがりで中々腰は上げないが,気に入らない事に対しては納得するまで真剣な目で掴み掛ってくる真っ直ぐさがあり,裏返せばちょっとしたきっかけさえあればぐんぐん伸びていく素質を感じさせた。

 島田駅から北へ300メートル程のところに扇町公園があり,そこに1981年町内の人たちの手で『平和の礎』という石碑が建てられた。裏には47名の名が刻まれている。ここは66年前,終戦直前の暑い夏の朝,アメリカ軍の『超空の要塞』B29がたった一機で現れ,一発だけの大型爆弾を投下した爆心地である。ところが手掛かりとした『島田市史」にはわずか5行の記述しかなかった。

 『島田市史』

 1945726日 午前834分には,扇町地内へ爆弾を投下され,即死者33名,負傷者154名,全壊家屋60戸,半壊家屋65戸,小破家屋300余戸という被害を受け,町内は大混乱におちいり,恐1怖におののいて疎開者が増加し,取り片付けも手につかない状態であった。

(2)フィールドワーク

市史の記述は余りにあっさりと書かれ,実態が分からない。そこで生徒たちに『戦争を知らない子供達』同志で調査研究チームを組み,フィールドワークに出掛けよう,と呼びかけた。この地は普段,彼らの登下校の通過点である。爆撃で上半分が吹き飛ばされた銀杏の木も,今では毎年葉を茂らせ,普門院の門柱には爆弾の破片がめり込んだ痕跡が残る。住職は「お寺も軋み、墓石も倒れたと聞いています」と言う。生徒たちが「その日のことを聞かせてください」とお願いした時から今日まで続く活動が始まった。住職は,当時の事は知らないからと,扇町に住む被災者を呼び集めてくれた。

(3)普門院での聞き取り

 この時のお寺での出会いがその後の運命を定めた。被災者の方々は『この子たちには語れる…そう思って,初めてあの忌まわしい体験を語る気持ちになりました』とおっしやった。最初は孫に話しかけるように優しく,しかしやがて40年の封印が解かれると,涙を流し,ものすごい表情で傷口を見せながら「ああ…私たちの話は明日の朝まで続いてしま

う」とこぼしつつ,話は留まらなかった。(この時の印象が,後に出版する本『明日までつづく物語』のタイトルになった)

 生徒たちは,余りの生々しさに「おばあちゃん達の話は聞くのがつらいよお」と怯え,「泣きながら話してくれた。でも僕たちの戦争はファミコンの世界,勝てば嬉しいけど,負けたらリセットボタンを押すだけ」と戸惑いを隠せなかった。

 体内から出てきた爆弾の破片。こんな小さな破片のため,戦後何十年も体調を崩し苦しみ続けた。

(4)伝える試み

 被災者の熱い思いを聞いた私自身も,教室の授業では旨く伝えることができず,この思いをどうしたらいいか迷う日々が続いた。そして,悩んだ末体当たりで始めたのが一人芝居や歌を自作自演することだった。脚本は,当時小4の貞夫少年が主人公。学校の軍事教練中に母や親類6人を失った志村さんの実体験が元である。文化祭で音響や照明など生徒の手を借り,舞台で転げ叫び演じた。招待した扇町の方々は「有難う,十分です」とおし

やってくださったが,どこか不完全燃焼の気持ちが残った。

(5)新事実の発見

  1991625日『静岡新聞』朝刊の片隅に小さな記事が載った。最初は自分たちの目を疑った。『終戦直前,島田に1万ポンド爆弾原爆投下訓練だった?」この記事がきっかけで「春日井の戦争を記録する会」と出会い,先生たちのご厚意で,アメリカ軍第509混成軍団の特殊作戦任務報告書を入手した。その「空からの証言」から原爆投下の新たな事実が明らかにされた。この爆弾は,長崎に落とされた「プルトニウム原子爆弾・ファットマン」と同じ形,同じ重量の爆弾であり,本物と見分けるため黄色に着色されパンプキンと呼ばれていた。攻撃機が原爆を安全に、かつ正確に落とすため,島田はその練習台とされたのである。

(6)生徒の変化

 私たちは「地上の証言」の悲痛な叫びに対する「空からの証言」の冷徹さに憤りを隠せなかった。勉強嫌いを自認していたはずの生徒たちは,「これは絶対聞き捨てにはできない」と日毎に変化を見せた。こうした聞き取りや調査活動は,その後4代に渡り続いた。同じパンプキン爆弾が投下された焼津と浜松へのフィールドワーク,文化祭での『冊子』づくり,被災体験者を招いた講演会,爆弾の模型製作,そして本の出版,慰霊祭での平和の誓い宣言・・・。高校生活が忙しくも充実した日々となった。自らの意志で動き,頼もしさが惨み始めた頃,テレビ取材があった。半日の取材なのに番組はたった3分。録画を見た後のひと時,論争が起こった。「広島・長崎はみんな知っていても島田が練習だった事は知らない。もっと知らせるべき。知らなければ戦争の事を考えない。でも知れば戦争を止める力になるんじゃないか」というA君の発言にみんながうなずく中,B君は「でもそんなに簡単じやない。テレビや新聞でいくら言っても一人ひとりが本当に戦争をやらないと思わなければ止まらない。知っているだけじゃダメ。一人ひとりの覚悟がどれだけ強いかだと思う」と発言,しばらく沈黙の後,C君が「でも僕たちだってこの活動をしなかったら戦争の事を考えたりしなかった,あっちこつち出掛けて話をしてもらったから考えた。みんなだってきっと同じだよ」と発言。活動を通じたからこそ深く共感し合えた瞬間であった。

 (7)演劇の創作

何度目かの聞き取りの後,一人の生徒が創作劇「聖戦の果てに」を書き下ろした。この有志劇団「青空」の活動は、文化祭から老人ホームでの公演へと広がった。この時、脚本・演出をしたD君は「自分が実際に空襲を受けたような気がし,戦争を許さないという気持ちで書きました。」と話した。役者をやったE君は終演後「とにかくまじめにうれしかった。これほどまでに素直に喜べた経験などいままでにない。」と語った。その年彼らは卒業したが、その年彼らは卒業したが,翌年「青空」劇団員の遺言どおり演劇同好会が創設された。そして2年後『聖戦の果てに』は後輩たちにより島田市プラザおおるりの舞台で,初代劇団員や被災者が見守る中,再演された。

 以来19年間存続している演劇部は,自ら考え,責任を持ち,連帯して活動する方針を貫いてきた。テーマこそ異なるが,ずっと創作劇を舞台にかけるのも「青空」から続く伝統である。地域の歴史,そして地域の人たちとの出会いは,思いがけない場をもたらしてくれた。

 卒業して2年後,二十歳になった「青空」に手紙で宿題を出してみた。あの頃を振り返りどう思うかである。劇団ひまわりに入ったD君は「自分の台本を初めて劇にした事は,争に対する認識を変えた。それまで戦争は人が一つの失敗をバネに進んでいく過程に過ぎない位にしか思っていなかったが,そんな事で済まないことを聞き取りで教わった。主人公に成り切って書いているうちに,二度とこんな事をするな!上は命令で済むが下の方は勝っても負けてもこうなっちやうんだぞ,と怒りがこみ上げてきた」と書いた。就職したE君は「平和な世に生まれ,戦争の悲惨さを知るのは無理な話かもしれません。たかが想像がつく程度では本当に知った事にならないと思います。戦争はとてつもない事とは分かっていても,どうしても自分とは無縁のもののように思えてしまい,上司に怒られる事の方がよっぽど怖い毎日です。けれど,いくら形だけだったにせよ,戦争をテーマにした演劇に参加できた事は高校時代の唯一の誇りに思える経験でした』と返事をくれた。

(8)「島田朗読の会」との出会い

 20年程前,空襲の話を聞き,パンプキンの模型を作り,舞台で演じた高校生は,今や家庭を持ち社会の役割を担い暮らしている。けれど,今でも会えばあの時夢中で活動した話を昨日の事のように鮮明に語り出す。だがもう一度聞き取りからと思っても時の流れには抗えない。当時を知る方々は物故者になられ,体に障害を抱え始めている。戦争を伝える活動も新しい工夫が求められている。

 そんな折2007年春,『島田朗読の会』座長,西岡いつ子さんから電話があった。島田朗読の会は,朗読という表現方法を通して,作品の持つ芸術性と文学の味わいを聴衆と分かち合い,併せて自己を表現する喜びを感じ取る目的で発足し,上は80代から下は40代の12人からなる朗読劇団である。 「今度の815日,島田市平和記念式典で,島田空襲を脚本に朗読公演をすることになり,生徒さんとまとめた本を読み脚本にしました。参考にお話を聞かせてくれませんか」という。この時私は,かつてお話を聞いた側がそれを伝える側に立つ時代になった事に感慨を覚えつつ,胸の奥の方にある種の使命感が芽生え始めた。

 私は,朗読の会の人たちに,証言を聞いた当時の語りの気迫や聞いた際の衝撃を伝えた。すると「先生も一緒にやりませんか」と言う。しばし迷ったが,構成も語りも素晴らしく,また,脚本中に自分自身の母が登場する。母は爆弾の音を聞き,地面に伏せて助かった。当時の母 の日記には「白昼こんな爆弾を許さない。私も一人でも殺して死のう」とあった。今,私が生きて存在する事自体が奇跡に思え,この活動はやるべき事だと決心した。

2011_1219味平 小林講演

(9)朗読劇『ムクの大木の下で』

現在,ムクの木は区画整理のためなくなっているが,当時爆心地近くの横山さん宅の庭にあり,この大木の下ではいつも子供達の遊ぶ姿があった。爆撃直後この木に髪の毛や肉片が引っ掛かり燃えていた。私は,この爆撃で一瞬にして命を奪われ,家も家財も何もかも失い心と体に大きな傷を負いながら必死で生きた人々の事を決して風化させてはならない,と決意して臨んだ。

 しかし,稽古が始まってからは戸惑いの連続であった。「そこに千切れた手が見えない?ほら人々の叫びを聞いて下さい!」戦争体験のない者が戦争を伝えるため,被災者の目や耳になり感覚を研ぎ済まさなくてはならない。朗読とは言えただ立って本を読むのではなく,B29の爆音や爆発音,照明の中,当時の衣装で焼け跡をさまよい,遺族を捜し,嘆き歩く姿を全身で表す演出手法である。

 脚本は,生徒と共に本にまとめる際,地上からの証言を「機影・投下・昨裂・惨状・残された者」と時間軸で整理した仕事が生かされている。そして,米軍の冷徹な作戦目的や評価など「空からの証言」を織り交ぜ,劇が進行する。

 貨物列車でやっとの思いで島田へ帰ると,家も家族も失っていた男性。吹き飛ばされ落ちた井戸から這い上がる母親。終戦後,地面に腸のような血がシミになり残っていた頃「島田の目抜きのとこなら大変だっけ,扇町だでええっけなあ」と前を通る中年の男に言われ歯を食いしばった遺族。10年近く続いた保障のないバラック暮らし。手術を受け大動脈の横から摘出した破片を持って市役所へ行き,「ここは広島じゃないだから」と突っ返され

た被災者…。扇町の人たちは,戦後の復興期「幸せな人を見ると無性に腹が立つ」という心根を改悟し,克服して静かに人生を歩んできた。劇の最後,「私は,人は憎みません。戦争を憎みます」と結ばれ,戦争は二度としてはならないと被災者の熱い思いを吹き込み,幕が下りる。

(10)生徒の学んだもの

 劇の間50分近く,梅雨の暑い季節も,真冬でも体育館に座る中学生は一言もしゃべらず真剣に見入ってくれた。こうして3年を掛け,島田市内全ての中学校で公演した。そして昨年,島田樟誠高校で行われた際には,生徒たちが事前学習用の資料や壁新聞を作成し,公演当日の司会,照明,音響,お礼の言葉等全ての進行役を引き受けた。

 生徒の感想

 祖父母の家が扇町の近くにあるので,昔,戦時中に,島田に爆弾が落とされたという事は聞いた事がありました。でも,その時,どんな状況で,といった詳しい事は知りませんでした。この劇で一つ一つの言葉がリアルで,頭にありありとその情景が浮かんできて心が痛みました。普段私たちが何気なく生活しているという事がどんなに幸せで,そして,どんなに戦時中の人々が望んだ事だろうか,そんな事を感じました。戦争の事をもっとよく知って二度とこんな事が起こらない事を願います。(島田市立初倉中学校3年Fさん)

 島田朗読の会の皆さんの迫真の演技に圧倒されるばかりでした。戦争がどんなに愚かなものなのかよく判りました。そして,僕たちの先輩が調べた事が元になっていると知り,島田に爆弾が落とされた事を知らない人たちにも,この事を知ってもらうために,僕たちもこれから伝えていかなくてはと思いました。今日は有意義な体験ができました。 (島田樟誠高等学校 3年G君)

  今後の課題

 空襲の被災者も,それを語り継ぐ朗読の会のメンバーも等しく高齢化の波に襲われている。今後は「聞き取り」から「伝える活動」へと,中・高校生など若い世代に継承し,「新たな証言者」として育成していく計画である。

  終わりに

 地域の歴史を掘り,地域の人たちに支えられ,生徒と共に学び活動する中で生まれた「自ら考え,責任を持って動き,助け合える人材に育てたい」という思いは,年々確かなものになっている。今年も大学で演劇部を立ち上げた者や,自主公演の招待状を持った卒業生が遥しくなった姿で来校する。こうした遺産をこれからも様々な活動で大切にし,ライフワークとして取り組んでいきたい。


 続いて、小林大治郎氏によるワークショップ 朗読劇「ムクの大木の下で」

2011_1219味平 ワークショップ

「私やあ一旦防空壕に避難してました。ちいっとたって、扇町が爆撃されたと聞かされました。そこにゃあ私んちんあります。夢中で駆け出いたです。大井神社を通り抜けると、神社の裏門の根元に、白髪んまじったおばあさんの首だけん転がってました。「あっ、首!」と思ったとたん、ああ足んすくんじやって。

でもその辺の建物あちぃっと傷んでる程度だっただけえが、ひとつ小路を曲がったとたん、泣き叫ぶ声やら、家の壊れた誇りやらでぜんぶん狂ってました。

家のあたりにたどり着いたちきにゃあ、あたりゃあほこりと血のにおいでむせかえっていました。そんな中で私の母あ、弟らの名前を呼んで半狂乱になってました。私ゃあ母を落ち着かせるため大声で叱りつけただけえが、なんて言っただか自分でも思い出せません。

 母と二人でけが人を運んだ病院にとんでったら、そこにゃあ、むしろおかぶせたたあっくさんの死体が横たわってました。弟らじゃないかと思ってむしろを一枚一枚めくっていきました。見る死体の全部ん、血、ほこり、泥で真あっ黒くなって全然見分けんつかんけ。

 そん中に、頭に野球ボールぐらいの穴んあいて死んでたお婆さんがいたっけ。その人あ腕ん中に、五、六歳の孫だらいねえ、子どもをしいっかり抱いていました。きっと、必死で孫を守ろうとしたずら。その子どもも顔ん血だらけで死んでました。

 そのあと、弟らん消息ん分り安心したんだけえが、うちの裏に住んでたいとこのひとりん爆風で8メートルくらい吹っ飛ばされて、死んだこんがわかりました。」

 被ばくした人々は人間としての自分を見失うことはありませんでした。一生懸命前向きに生きて、生きて、生き抜こうとしました。

「その年の暮れから私ぁ両松葉づえで歩行訓練をすることになりました。次の年には一人歩きもできるように回復しました。そんな歩行練習の途中の晩です。明るい電燈の下でよそ様の家庭ん家族そろって晩げのお膳についているとこお見ると、うらやましくて、ねたましくてたまらんけ。この衆らもあたしとおんなじ境遇ならどんなにいいか!などと思ったりしました。人の幸せをねたんだり憎しみょうもったりするっちゅうのは、よこしまな恐ろしい心です。あたしにいつそんな悪魔がすみついただか…。この戦争は、私の心と体にこんなにも大きな爪痕を残いたです。

 この日本の国にゃあ私んみたいな境遇の人んたあっくさんいることだら。日本だけじゃなっこう、中国や東南アジアの国にも、どんだけたくさんの衆が、毎日毎日、深い悲しみや憤りに明け暮れていることだか。」

 最後の圧巻に、演技を超えた涙が・・・。


 ピースメーカー「ダッシュ」の迫力ある演奏

2011_1219 味平 ダッシュ

 第五福竜丸「ビキニ事件」朗読劇

2011_1219味平 朗読劇


 そして、味の部

2011_1219味平 宴会

 おでん、手作りしゅうまい、カキなべ、さしみ、アジとホッケとマグロのカマの炭火焼き、ホタテとカキとエビの鉄板焼き、お好み焼き、とろろ汁、そしてマグロのカブト煮と、超豪華。

 2011_1219味平 カブト

2011_1219味平 アジ焼き

2011_1219味平 お好み焼き

そして、新しい仲間が!!!

2011_1219味平 拡大

 参加者約30人、高校生や若い衆が元気な「味な平和ゼミナール』でした。

2011_1219味平 味平








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エバーグリーン 豊田直巳講演会・写真展
 エバーグリーン企画 
 豊田直巳講演会・写真展
「フォトジャーナリストの見た世界とフクシマ」
2012年 2月4日(土)藤枝市文化センターホール
2011_1206エバグリポスター2011_1206エバグリチラシ12011_1206エバグリチラシ2
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志太榛原地区 味な平和ゼミナール
  12月18日(日)午後3時から 島田市六合駅近くの「道悦島公民館」で「味な平和ゼミナール」
 原爆投下訓練と島田空襲、平和バンド「DASH」の演奏
2011年味平 改
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第4回 静岡県教育研究のつどい 大口久克氏講演
 11月26日(土)島田「おおるり」で「第4回 静岡県教育研究のつどい」を開催しました。

記念講演「子どもの『すること』にも、『しないこと』にもいみがある

 北海道せたな町立大成中学校教諭 大口久克 氏

2011_1126大口久克氏

1、はじめに

 大学時代に金八先生を見て、熱血漢の教師像を描き、一生懸命にやることがよい教師像だと思ったが、いざやってみると誰もついてこなかった。教師は 子どもの内面に分け入って、子どもの今考えていることを理解し、子どもたちが今したいことをさせる方が伸びていくことに気付いた。だから「教師は刺身のつ ま」「縁の下の力持ち」でよい。

2、北海道のいま

 北海道はいまとても窮屈な状況になっている。管理職も窮屈だと感じているだろう。例の、政治資金規正法違反事件以来、服務規律調査がなされた。勤 務時間中に組合活動をしていないか、分会会議を開いていないか、組合活動にファックスや電話など使っていないか、あるいはしているのを見ていないかを調査 している。不適切な学校には会計検査院が監査にはいり、給与の返還を求めている。

 運動会のために早く出勤して準備をし、終わったので管理職ともども早く退勤した。それを、退勤時間だけを問題にして「不適切だ」と指導する。教育 行政がそういう立場でいることをさびしく思う。行政だけを悪く言うつもりはない。不正は不正だが、なぜこういうことをしなくてはならないのか、教育関係者 全体がそれをわかってくれないのが残念だ。

 また、その労組が特定政党を支持し、組合員の思想信条を無視して、ある政党のために支出することの問題性、そして政党が労組に頼り切ることに対す る問題。なかなかそれが,教職員全体に理解してもらえない。その体質が改善されないことを残念に思う。お詫びの文言には「子ども、保護者、組合員に対して 申し訳ない」とあったが、組合員ではない教職員にも多大な迷惑がかかっているのに。

3、学力問題 教育課程作り

 教育課程とは、教科内外の教育計画の全体のことである。教育課程表はその一部にすぎない。生徒会活動、地域との結びつき、学級懇談の持ち方など、学校教育のありかた全般の問題が教育課程である。だから全国一律の教育課程はあり得ない。学校独自のものがあるはずだ。

 中教審、文科省は「先行き不透明の未来」「厳しい未来」だからこそ「生きる力」をつけなければという。一部の富める者を生み出し、多数の者が苦難 を強いられる、そんな厳しい未来社会を乗り切るための学力だという。「社会が四角ならあなたも四角になりなさい」と言っているようなものだ。

 そんな社会ではなく、一人一人が自分らしく生きる社会が、私たちの描く未来社会像だ。そして、自分に合った未来社会を作るために学力をつけることを私たちは学校の使命だと考えている。それでこそ子どもたちは力を発揮するものなのに。

 「自分らしく、などというのは甘い」と批判する人もいる。自分は厳しさを乗り越えてきたのだという自負があるのだろう。「自分は社会をどうのこう のしようなどと思っていない、ただ生徒に賢くなってほしいのだ」と。きっと、社会をつくるとか変えるなどという姿勢に対して、青臭さとか高慢さを感じるの だろう。しかし、子どもたちの学びをいきいきさせたいという思いは共通している。共同できるはずだ。文科省が悪い、教育委員会が悪いのではなく、教師の共 通の願いに依拠して、教育課程作りをしていきたいものだ。

4、学校教育の原点

 35歳の時に、「教師は45歳からが勝負だ」と先輩教師から聞いたことが心に残っている。地域民主教育交流研究会などに参加し、自分なりの指標を もち、子どもをつかむ力をつけたいと思っているころだ。その先輩のいう「あと十年」とは、子どもをつかむためには、子どもがどんな父と母のもとに生まれ、 どうやって地域に育ったかなどを知らなければならない。地域に住み着いて一定の年齢にならないとわからないということなのだろう。目の前にしている子ども の背後にある人間関係や地域、そこからのメッセージを理解することなしに、子どもをつかむことはできない。

 しかし、その根ざすべき地域がなくなっている。地域の隣の高校が募集停止したが、残念なことだ。私たちの要求は、少人数学級。統廃合せずに30人 学級にすればいいのに。地域から学校がなくなれば多くの生徒が自宅から通えなくなる。青年にとっても大きな問題で、青年の心情を傷つけることになる。学校 には懐かしさが必要だ。それが勇気を与える。しかし、そのなつかしさを統廃合によってなくしてしまってよいのか。青年が社会から大切にされていると思える ことが社会保障の原点である。人が生きる、育つには懐かしさがひつようである。原風景を問うことが大切だ。

5、大阪秋桜高校との出会い

 3年前に、大阪の通信制の秋桜高校の先生方と出会った。そのたんたんとした報告に分科会場がしっとりした。「子どもたちが変わりたくなって変わっ ていくところが学校」「明日も教師でいたいと思えるところが学校」だと。「変わりたくなって変わっていく」という言葉に、子どもの発達に関する深い洞察を 感じる。外部からの強制ではなく、内部に変わりたくなる力があって初めて変わるものだ。

 秋桜高校の先生方の原点は、解雇撤回闘争。学校がなくなったら、子どもたちを救うことができなくなる、と議論したという。そして通信制の学校が必要だと結論をだしたのだという。

 卒業文集を読ませてもらった。貧困で救いを求めてきた生徒に、真摯に向き合って卒業させたという。その生徒が「初めてここで先生を信用できるよう になった」と書いていた。今まで、どんな先生、大人と付き合ってきたのだろうか。人を信用できるようになることは自分自身に対する自信になるはずだ。

2011_1126講演会1

6、危機を希望に

 この10年は、アメリカがその覇権主義をテロで示した10年だったということができる。人類の文明が人類の文明を脅かす。3.11もそのひとつだ。

 アメリカがほしいままにするのか、国連憲章のもとづく平和の国際秩序をつくりだすのか。暴力の文化か平和の文化か。いま、どちらを選ぶのかが問われている。平和の対比で戦争を思い起こすが、暴力と平和の対比が必要だ。平和の文化のひとつ憲法九条である。

 九条改悪に反対する高校生は沖縄などに多い。しかし、賛成の高校生は進学校に集中しているという。彼らの学びの姿勢が集約されているような気がす る。憲法が変わろうとも、自らがイラクに行くことはないと考えているのかもしれない。学力をつけるとはどういうことか、あらためて考えなければならない。

 旧教育基本法の「国民全体に対して直接責任を負って」が削除された。法律さえ決めれば、不当な支配ではない、と。大阪市長選挙で橋下が劇場型の選 挙で勝った。彼が教育基本条例を決めれば不当にならないということになる。二度と戦前の様な社会にしたくないと旧教育基本法ができた事情を知らない無謀で ある。

 私の勤務校の今の校長はいい校長だが、「1学期お疲れ様、2学期も子どもたちのことをよろしく」とあいさつした。「だけどなあ」と、時の校長にか みついた教師がいた。「校長のために仕事をしているわけではない」と。これこそが校長のためではなく、子どものための教育である。「国民に直接責任を負っ ている」とは、子どもに直接責任を負っているということ。法律とは違っていても変わっても、「子どものため」は条理として教師の内部に残っている。条理法 として残っている。

 大田堯氏が「教基法改正に賛成」だと書いていた。教育に関する法律はいらない、条件整備法だけでよい、という主張だった。教育の目的さえも法律で 決めるべきではない、と。旧教基法に目的が書いてあるがあれは仕方がなかった、国策に利用されないために書いたもので、ほんらいはいらないのだという。権 力は、政治は教育に介入すべきではない。

7、子どもの現実

 札幌で単身赴任中のこと、事務所のビルの下に真っ黒い車が来て反共宣伝を始めた。「全教、共産党は解散せよ。偏向教育をやめろ」などと演説してい る。格好いい30歳の男性の次に若い青年が原稿用紙を読み上げはじめた。句読点がはっきりしない。句点ではちゃんと休めよ、と言いたくなった。彼らの論理 の展開やその思想性よりも、彼のような青年が右翼に依拠しなければならないのはなぜか、彼らの文化的環境や成育歴にも思いをはせなければならないと思っ た。

 教師が良かれと思って一生懸命やっていることが、やればやるほど子どもたちにとっては、自分のできなさ加減に辟易して、実は、自分自身にバツをつけていることになっている。短時間ではついてこれない生徒もいるのだ。

 秋葉原で加藤青年が起こした事件を思い起こす。かれは「高卒以来負けっぱなしの人生」とネットに書きつづり、犯行におよんだ。彼は県内トップの高 校を卒業した。多くが国立大学に行く高校だ。その校長へのインタビューで、「彼は300番だった」と言っていた。人のプロフィールをまず順番で示すとはど ういう高校なのだろう。

 パンドラの箱の話がある。最後に残ったのは希望だと。その意味がわからなかった。調べると最後に残ったのは「予知」だという説もある。未来を予想 する力、つまり予知がなかったから希望をもてるのかなと考えると何となく合点がいった。加藤青年は、自分自身の将来を予知してしまったのかもしれない。そ したら絶望しか残らなかった。新自由主義、自己責任論に陥って、他殺へいってしまった。

 悪さをしない子が普通の子ではない。だれだって暴れるし、矛盾もある。「いい子ばかりなら学校なんていらないよね」。

8、子どもの貧困

 以前は「子どもと貧困」だったが、「子どもの貧困」と固有名詞化された。湯浅誠さん中心の年越し派遣村はまさに政治災害だが、日比谷公園で暖を取 りながら北上してきている二人の兄弟がいた。出身地のK病院の待合室に身を寄せるようにしていた。なぜ、その医院に?彼らはこの診療所に小さいときにか かったことがあった。その記憶からここは自分たちを追い出さないと思ったという。署名用紙が置いてあり、私たちの要求と同じ要求を掲げているような、そん な雰囲気の診療所だった。看護師さんや医師が命を守ることに奮闘している。それを覚えていて身を寄せたのだろう。その診療所は兄弟に「受容」というメッ セージを与えていた。学校もそうでありたいものだ。

9、いじめの問題

 子どもたちはジグザグの成長をたどる。いじめ自殺が北海道でも多い。ビルから飛び降りたり、滝川で首をつって子どもが自死した。「何やっているんだ」という抗議が殺到した。

 いじめ問題を加害者と被害者という二項対立でとらえてよいのだろうか。人間どうしだから、様々なトラブルが発生する。それがいじめかどうかは判断 が難しい。それを単純化してしまうのではなく、なぜそういう関係になってしまうのかをていねいに解きほぐしていく、私たちにはその力量をつけることが必要 ではないか。

 滝川の時、「なくしてほしいのはいじめっ子ではなく、いじめそのもの」という声が上がった。いじめた生徒を出席停止にして排除するのではなく、 「いじめをしなくなれば豊かな人間関係を作れるのに」というメッセージを子どもたちが送っているととらえなければならないと思う。

 文化祭で劇を作りたいと子どもたちが言い出した。いじめをテーマにするという。脚本係をきめて、子どもたちに任せて作らせた。そのストーリー。い じめの中心は学級委員をしているリーダー。先生がいじめ調査をしていじめが発覚し、呼び出してすごい剣幕で怒る。首謀者は白状するが、いじめられていた生 徒は許さない。

 「オレ以上の傷を負ってもらわなければ…」「自殺に追い込んだという呪縛に縛られて苦しめ」と結局飛び降りて自殺してしまう。生徒の考えたものだ から、そのまま演じた。いじめはダメだと口で言うのは簡単だが、劇作化して、それを演じて、血肉化していくことが大切だと思った。

10、作られた教師像からの解放

 教師受難の時代である。最近の新採者が明るくにこやかにはきはきあいさつしているのが気になった。自分らしさを横において社会的に作り上げた教師像に沿って演じている感じがした。

 教師を目指す大学生に講義しているが、「先生は生徒の誰でも好きになれますか」と質問する学生がいる。教師という立場に立った時の私たちにそれが できるだろうか、自分の意にかなった生徒は好きになり、沿わない子どもは嫌いになるのはおかしい、と考えてしまうのだろう。押し付けられた教師像を描いて いるのかもしれない。それよりも、人間として、一人のおじさんとして向き合えばいいのに。自分に合う、合わない生徒もいるのは当然のことだ。〜しなければ ならない、こうあらねばならないというとらわれからの解放が必要だ。

 一方で教師は、生徒に「しなければならないことがたくさんあると教えなければならない」と思わされている。生徒指導部長がたくさんきまりをつく る。「職員室に入るときは、礼をして失礼します、と言う。出るときは振り返り失礼しましたと言う」と。私は「それだけでいいの」と皮肉っぽく質問する が…。

 90年代後半、黒磯で生徒が若い女性教師を刺殺した事件が起きた。「教職員が結束」して、「心を一つに」して、「毅然と」生徒を指導するべきだ、 とよく言われる。しかしその中で黒磯の痛ましい事件が起きた。まさに「窮鼠猫をかむ」だったのではないか。刺された女教師も、「足並みを乱さないように、 甘く見られないように」縛られていたのだろう。生徒は、「ナイフを見せてもひらまなかったので刺してしまった」と証言している。「ひるむ姿を見せず毅然 と」「厳しさ」を要求されて身動きを取れなくされられていた女性教師も、「窮鼠」ではなかったか。

 「私だけでなく全職員で言ってください」と言う教師がいるが、老若男女、自分らしくさまざまな形で生徒を指導すればよいのに。一番苦しんでいるのは指導する側の教師かもしれない。生徒指導とは何か、を考えなければならない。

2011_1126講演会2

11、弱い教師だからこそ見えたもの

 私も窮地に陥ったことが2回ある。生徒が荒れ、父母からもバッシング、二人が不登校。甘いからだと批判された。今すぐ何かをせよ、と迫られた。そ の時に荒れの中心の生徒は小学校2年生からの付き合いだった。柔道教室での付き合い。中学の時に担任したが、彼はたばこ吸う、いじめをする、校舎は破壊す る。付和雷同的に追従する生徒も多かった。辛い時期だった。新聞を見ると求人広告を見ていた。無意識に早く辞めたいと思っていたのだろう。彼は、人間関係 を動物的に感じていたようだ。弱いとみれば暴れ、殴ったり、服を破ったり。私は意外だろうけれど柔道3段。ねじり伏せることもだきたが、それをしたら彼は 刃物を持ってきただろう。夢の中では、柔道技で投げ飛ばしていたけれど。

 彼にとって破壊と暴力はどうしても乗り越えなければならない発達上の課題だったのだ、と。破壊という形で目立つこと、暴力でしか人間関係を作れないことに。そういう人間もいるのだ。そうせざるを得なかったのだ、と。彼との付き合いで教わった。

 久しぶりに彼と会うと、高校に行きたいという。通信制高校を紹介して、私の家で願書を書いた。どうして高校に?と聞くと、中卒と高卒ではやること が違うという。肉体労働した経験から、高卒は屋根の下で仕事ができると知ったようだ。組合を作りたい、どうしたらよいのか、と聞くこともあった。社長と折 り合いが合わないのだと。私が紹介して道労連に入った。そして結婚して落ち着いて葬儀屋になった。葬儀のノウハウを身に着け、結局葬儀社の社長になる。口 がうまく、商売上手。この四月に、東日本大震災のボランティアに行ったと連絡があった。そのことを学校で話をさせてくれ、という。

 私は実は学校では道徳教育推進委員。全校道徳の名のもとに彼が話をする機会を作った。写真を見せながらリアルな話をしてくれた。葬儀用品は仙台が 中心だが、取引先のご主人が津波にのまれてしまっ た。そこに米などを持って支援に行ったのだと。橋の上に1億円もする船が乗っていたり、墓地のなかに車が流れ込んでいる写真に子どもたちはびっくりしてい た。率直な生徒は、それを「どう思いましたか」と質問する。彼は「墓石が売れるな、と思った」と答えていた。葬儀関係の話もしてくれた。いろいろな葬式に 立ち会った。その中で、いくら地位が高くてもあの世には持っていけない、どのように生きていたかということが大切だと考えるようになった、と。15歳の時 に気が付いてほしかったな、と私は思ったが…。

 何百という忘れられない葬儀を経験した。母親が幼子をひいて死なせてしまった葬儀が悲痛だった。

 その最愛のおじいちゃんが亡くなったときに悲しみが初めて分かった、と言う。担々と棺を焼くところまでは職務としてやっていたが、焼く段階になって、「おじいちゃんありがとう」と号泣したという。

 彼との関係が途切れなかったのは、感情的に許せないことはあったが暴力でつながらなかった、力で押さえつけなかったことだろう。だから30歳を過ぎても人間的につながっていけたのかなと思う。力でねじふせ柔道技で投げていたら関係は終わっていただろう。

12、「甘やかし」と「甘えさせ」

 「甘やかし」と「甘えさせ」とはちがう。僕がやっていたことは「甘えさせ」だったんだなと確認して安心した。なんだか肩の荷が下りた気がした。甘 えさせとは、おかしいことはおかしいと人間的な要求を投げかけながら、子どもたちのしていることを何らかの意味あることとして受け止め、否定的言動をする 子に対しても、その中にまっとうに生きたいという深い要求があるということを前提として向き合うこと。それが、優しいまなざしになるのではいか。

13、弱いから強い

 ある人は、教師に向いていないと言われ、彼の教師としての課題は迫力をもって生徒に迫ることだった。さきほど紹介したT君も含めた悪ガキと対峙し ている場面に何度も出くわした。しかし彼は、迫力ではない対峙の仕方で生徒たちと接していた。クラスで流しソーメンをやったり、「電子を見る」など、いろ いろくふうして授業を作っていた。すると子どもたちが食らいついてくるようになった、と。彼は、自分が弱いという課題と向き合った。その結果、「弱いから 強いというのかもしれない。自分は迫力がないから楽しい授業を提供するということが必要だった。整然とした授業ではなく、楽しい学び、価値ある学びをめざ すことができた」と言えるようになった。寡黙で弱くて教師に向いていないと言われた彼こそ、最も教師に向いているのかもしれない。

14、不屈性

 21年前に組合作りに奮闘した。組合が「日教組」にはいるというのでそれに反対して、檜山教職員組合を作った。時代の先を読むと先駆性と、節を曲 げないという不屈性は必要である。しかし、不屈性とは、他のものを排除することではない。苦渋の選択を迫られ、日教組に残らざるを得なかった人たちもいる のだ。私たちこそがまっとうな組合であり、あちらの組合は理解が薄いのだというのではなく、彼らの中にある、教師としての願い、人間としての願い、生徒の 成長を願う共通の部分を見てとって、彼らとも共同することを念頭に置くこと。それがこれからの連帯を強めるはずである。排他的ではなく親和的な不屈性を。

 人間は失敗するものだ。失敗するときがあるが何かのためにがんばりたいといつか思えるように成長していく。排他的なものの見方ではなく、子どもの 味方に立ち、同僚教師はもちろん、管理職、教育行政とも、教育の条理・道理の部分では共同・連帯していく。さまざまな教育関係者と共同連帯して、子どもた ち成長を励ます、そのためには親和的な不屈性をもっていたいものだ。

 子どもたちを励ますような、教師が自分らしい、人間らしい教師でいていいんだ、と思えるような議論を作っていきたいものです。

2011_1126看板

| - | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
藤枝地区労センター 「平和のつどい」
 11月17日(木) 18:30〜 藤枝市生涯学習センター 第1会議室
「3.1ビキニ第五福竜丸被災から学び、
           浜岡原発廃炉をめざして」

講師 枝村三郎さん
     (なくそう浜岡原発・命とふるさとを守る藤枝市民の会 世話人)
2011_1117平和のつどいチラシ
| - | 22:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
東海道藤枝宿「いきいき祭り」で教育署名集め

  11月3日 東海道藤枝宿の「いきいき祭り」。
 志太榛原地区の組合員で「教育署名」集めをしました。
 10月1日の「飽波神社例祭」以来2回目です。
2011_1103教育署名1

2011_1103教育署名2

 風船の効果絶大。知り合いの方が、手伝ってくれたり、励ましてくれたり、
藤枝北高味噌のおでんをふるまってくれたり・・・
 1時間で50筆くらい集めたでしょうか。

2011_1103天狗



| - | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
企画展示「ある軍国少年が見た 戦時下の大人たち」展
  静岡平和資料センター
 2011年9月23日〜12月23日

常設展示「静岡・清水大空襲」展
2011_1019平和資料センター1
2011_1019平和資料センター2


| - | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
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